森のようちえんから国際交流まで、幅広い社会教育交流活動をご紹介します。

笑顔の絶えることのなかった100歳のダンサー 柴田茂登雄さんを偲んで

今チャンスが訪れた

ある年の熟年からの社交ダンス教室初日、小柄なお年寄りが私の前に近づいてきて、「柴田茂登雄85才。これから社交ダンスを習いたいと思いますが、何とかなりますか」と、話された。私はすかさずに「何ともなりません」と答えようとしたが、“それを言わないのがひの社会教育センターの信念”と心に決めていたので、「出来るところまでやってみましょう」と話した。しかし内心では「無理かもしれない」と判断していた。
そして教室がスタートした。最初はドングリの背比べでどなたも同じようなレベルであった。日ごろ歩くときには何の違和感もなく歩く方々がダンスとなると、まるでロボットみたいに変身し、ぎこちない歩きとなる。特に柴田さんはその変身ぶりが顕著に表れていた。「やはり無理か」と思った。
しかし柴田さんは、実に真面目で、初日のレッスン終了後、再び目の前に現れ、「どうでしょうか、何とかなりますか」・・・・・。「大丈夫、何とかなるかもしれません」と心にもないことを言ってその日を終わったような気がする。

一念発起とはよく言われるが、柴田さんは常に自分を奮い立たせ、一回も休むことなく通い続けられました。お世辞にも「うまい」とは言えなかったが、徐々にダンスの形になっていった。
まさに、当センターの理念のひとつである。“生涯学習は幾つになっても何時からでもやってみたい時が適齢期”を実践された一人である。
柴田さんは続けられた秘訣のひとつに、“分からない時には絶対にわかった様な顔をしないこと”と“分かった時には笑顔で答える”であった。またこちらも、柴田さんが納得するまでお付き合いし、ダンスの基礎を理解してもらうために、テキストを拡大したものを渡したり、足型を床に書いたり、前に立ったり、後ろに立って声をかけ続けるなど、いろいろな工夫をしてみました。そして何よりも効果が表れたのは、「すばらしい」「足の出し方はばっちり」「身体の線もダンス風になってきました」と褒め続けることだった。

結局柴田さんとは5年間お付き合いして、いよいよ卒業という年に、川柳もどきの賀状を差し上げた。

「覚えない、覚えない、何年やっても覚えない、覚えたかなと思ったら、すぐに忘れるダンスかな、されど継続は力なり、長年のお付き合い本当にありがとうございました」

するとすぐに次のような返礼が届いた。

新春の朝日と共に賀状ありがとうございました。私も今の心境を一句。

「覚えられない、覚えらえない、どうにもこうにも覚えられない、覚えたかなと思ったら目が覚めた。これぞ初夢。されど、今チャンスが訪れた」

この教室の入学と卒業は自己決定していただくことにしていた。私から見ると「もう少し学んでほしいんだけどな」という人も何人も卒業されたが、柴田さんは自分が納得いくまで学び続け、結局すべてのプログラムの基礎的なことは習得された。まさに“努力の人”そのものであった。
教室にはほとんど休まず通い続け、講座終了後も地域のダンスサークルに入会し、さらにダンスを楽しむ心と技を磨かれた。
少々つまずきながらも、常に前向きにダンスを楽しまれる柴田さんは、ダンスを習得しただけではなく。だれからも愛され、尊敬され、私たちに“人生を楽しむとはこういうことですよ”と無言の笑顔で教えていただいたように思う。

あなたに出会えて本当に良かった

2007年の春ごろだった、日野市ボールルーム協会の宮崎春男会長より、「100歳を迎えてなおダンスを楽しまれている柴田さんの姿は私たちの鏡である、誇りである、そこで、そのことに敬意を表してダンスパーティーをしたいので、応援してほしい」との相談があり、二つ返事で承諾した。

そして9月、日野社会教育センターの体育室において満100歳を迎えられる柴田茂登雄さんの誕生日を祝うダンスパーティが行われた。
私は黒子になって準備から本番まで裏方で支えましたが宮崎会長からは柴田さんには是非ともデモンストレーションしてほしいとお願いして、やがてその時を迎えた。
柴田さんの様子はいつもとは少し違っている。それは、日頃は杖をつき身体を少し丸めながら歩いている小柄な柴田さんの姿を拝見しているが、この日は黒のズボンに真っ赤なシャツに身を包み凛々しくその出番を待っていた。
そしていよいよそのときが来た。多くの皆様に拍手で迎えられた柴田さんは、背筋をピシッと伸ばされ、パートナーの先生を相手にまるで別人のように1曲のルンバを踊りきった。そして多くの方が、感動と共に絶賛の拍手をおくっていた。

まさに、『青春』そのもの。

『年を重ねただけでは人は老いない。人は信念とともに若く、人は自信とともに若く、希望ある限り若く、失望とともに老い朽ちる』とある。(サムエル・ウルマンの『青春』一部抜粋)

そして、その夏の日の出来事を思い出すことがある。私が出張からの帰り豊田駅から職場に向かう途中、柴田さんとばったりと出会った。

「柴田さんこんにちは、この暑い中どちらへお出かけですか」
すると柴田さんは「皆さんが私のためにダンスパーティーを開いてくださり、是非デモンストレーションをとお願いされたのでこれからそのレッスンに向かうところです」
「この暑い中お元気ですね」
「イヤー元気ではありません、これでも週3日はヘルパーさんに付き添われて透析に行っております」と答えられた。そして「透析を続けてでもダンスを楽しみたい気持ちの方が強いです」と答えてくれた。私はただただ頭が下がる思いだった。
すると、柴田さんは私の顔を見つめて
「館長さん、私はあなたと出会えて本当に良かったと思っています。心からそう思って感謝しています」と話してくれて、私に頭を下げてくれた。

私はボー然として、ただ頭を下げてこちらこそ有難うございますというのが精いっぱいだった。頬伝う涙をこらえることが出来なかった。
そして、柴田さんは、「ここまで来たら生きられるだけ生きてみたい、これもダンスと皆さんのおかげです。そしてセンターに行くことは私の楽しみのひとつです」とニコニコしながら話してくれたことを、昨日のことのように思い出す。そして、この仕事に就けたことを冥利に尽きることと感謝し、かみしめている。

今が一番幸せだなー

102才までダンスを楽しまれた柴田さんはドクターストップがかかった時には、かなりがっかりされたと伺っている。
その柴田さんが2011年3月23日、103歳の誕生日を前にして永眠された。心からご冥福をお祈りいたします。
柴田さんは亡くなる前日、体調不良のため病院に検査に行かれ、主治医からは即入院と言われましたが、柴田さんは「先生、心の準備をして明日出直してきます」と帰れたそうです。
帰宅した柴田さんは夕食をすまして、ご家族にお休みなさいと声をかけて床についた。翌日、目を覚まされることなく天国へ旅立たれたそうです。

柴田さんは最後までダンスを愛し、楽しまれていらした。まさに人生を楽しむために自分の目標に向かって常に前向きに学ばれ、微笑みを忘れず、決して諦めることはなかった。その姿勢は多くの方々に慕われ、勇気を与えてくれた。

また柴田さんは、ひの社会教育センターは全国的にみても珍しい民間の社会教育施設であり、その運営はとても厳しいということをとてもよく理解されていて、「市民がともに学び合い、仲間を作り、人生を楽しむための施設は市民の宝物である。」と“市民として日野社会教育センターを支えよう”と賛助会にも入会され、「会費をお持ちしました」とニコニコしながら窓口を訪れ、私たちを励ましてくれた。
今でもあの笑顔を忘れることが出来ない。

そして亡くなる直前、ご家族には「今が一番幸せだな」と話されていたそうだ。柴田さんの生き方は、ただ単に自分がダンス学べればよいという考えかたから、ともに人生を楽しむ場を作り出すために、いつも笑顔で学び続けられていましたが、その生き方は常に謙虚であり、人としてこの世に生を受けた以上、自分らしい人生を送れることがどれほど幸せなことか、それが社会教育の原点であることを教えてくださっていたように思いました。


【先日柴田さんのご家族よりお手紙をいただきましたのでご紹介いたします】

先日はお忙しい中をわざわざご焼香においでいただきありがとうございました。故人もさぞありがたく感銘していることと思います。

故人は、中能館長はじめ地域の皆様と広くお付き合いをさせていただき大変お世話になり深く感謝いたします。

父は「いつ天命が来るかもしれないが生きている限り努力する。人は何か目的を持たないとだめ人間になるので、出来る、出来ない、にかかわらずやる気が大切」と言っていました。
百歳を超えてもダンスに前向きに取り組む姿勢が立派でした。父は、大正、昭和、平成という激動の時代を103年にもわたって生きてきました。その生涯はまさに波乱に富んだものと思います。

最期は普段と変わらず大変穏やかな顔で文字通り眠るように逝く大往生でした。そして、子どもたちに何の迷惑をかけることもなく、後々のことを記してそれは立派な生き方で本当に頭が下がる思いです。

毎日、関東・東北大震災のニュースが報じられ惨状が信じられない思いで心が痛みます。今までの当たり前の生活のありがたさに気付かされました。

寒い日が続いております、ご自愛くださいませ。

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